IQB Annual Report 2020
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IQB Institute for Quantitative Biosciences |5の細胞の集合としての100万個の細胞の中で何が起きているのかを話し合っていたのが、今は、その一個一個の持つ揺らぎまで解析できるようになっています。池上 : 生命活動というと定性的な受け止め方がされてきましたが、定量的に分析する方向へ移行しつつあるんですね。白髭 : そうですね。近い将来、細胞や生体分子の振る舞いは数式で記述できるようになると期待しています。生物には定性的な側面もあるのでそこは無視できませんが、研究者は、測定して数値化し、標準化して、他の人にも信用されるものを示すという努力をずっと続けてきています。ですから、今、一見、定性的に見えているものでも、突き詰めていけば定量的に説明できるようになり、そうなって初めて、物事を本質的に理解したということになると私は思っています。池上 : すぐに役立つ研究は、とてつもないブレークスルーには結びつかないわけですね。白髭 : その通りです。そして、ブレークスルーには技術が欠かせません。技術が進めば、それまで10倍の倍率でしか見えなかったものが100倍、1000倍の倍率で見えるようになり、情報量が増えます。科学のブレークスルーの前には、必ず技術のブレークスルーがあります。新しい技術によって新しい発見が生まれ、そこでアイデアが生まれる。科学はこの循環で成長します。ですから、目先の技術というのは、実は大切なことなのです。白髭 : 科学でも歴史から学ぶ部分は多々あります。個人的には、たとえばスペイン風邪はどのように報じられ、どのように報道から消えていったのにもとても興味を持っています。定量研に池上先生に加わっていただいているのは、こうした、自分だけではなかなか勉強できないことを学びたいからでもあります。池上 : 感染症の拡大は、研究者同士のコミュニケーションも変えてしまったのではないでしょうか。ダイバーシティが豊かな研究所であれば、ちょっとした雑談から思わぬヒントを得ることもあったはずです。白髭 : 人と人との接触は、科学を進めるにもとても重要なものだということを、この1年で痛感しています。研究で行き詰まったときは「こんなことで困っているんだ」となるべく多くの人に言って回ることが大切です。その相手が多すぐに役立つ研究はブレークスルーを生み出せない池上 : 定量研は生命科学の基礎研究の場ですよね。基礎研究の大切さはわかっているつもりでも「どんな役に立つの?」という素朴な疑問を持つ人もいます。白髭 : すぐに役立つ研究は役に立たない研究だと言ったのはどなたでしたっけ。池上 : 私も学生にいつもそう言っていますが(笑)、小泉信三ですね。今の上皇陛下の皇太子時代の教育係だった彼は「すぐ役に立つことはすぐ役立たなくなる」と言っていました。白髭 : まさしくそういうことですね。よく言われるように、ノーベル賞は、20年、30年前の実績を評価されて授与されることが珍しくありません。受賞者の中には、当時は誰も見向きもしなかった荒れ地に関心を持ち、一人で耕すようにして研究を始めた研究者もいます。耕す人が出てこなければ、そこは荒れ地のままだったでしょう。研究所としてダイバーシティを大切にするというのは、そうやって荒れ地を耕すような研究をみつけて、そこを土壌に育てるということでもあります。ですから、別の意味のダイバーシティもこの研究所にはあります。ある程度、土壌が育って外部から自分で研究費を調達できる研究者にはそうしてもらいますし、そうではないけれど荒れ地を耕そうと研究者には、研究所としてサポートをして、そしてここに根付かせたいと思っています。ある程度の自活を求められている以上、その道は切り開いていくしかありません。海外並みに企業との連携をしていくには企業が興味を持つような研究ができなくてはなりませんが、定量研には、構造生物学の分野で欠かせないクライオ電子顕微鏡がありますし、次世代シーケーンサーと呼ばれる装置もあります。こうしたものを企業と一緒に活用する方法もあります。池上 : 定量研にも、20年後、30年後に花開くような研究をするんだという気構えが欲しいですね。白髭 : 今の時点でいい研究を選別してそこにだけ予算を使うというのでは、これからいい研究になるものが育ちません。科学のレベルの底上げも、そうして浅く広く、今は誰も見向きもしないような研究にもお金が行き渡ることで達成されると思います。研究者はもっと歴史とコミュニケーションから学べる池上 : 今、新型コロナウイルスのワクチンとしてmRNAワクチンが注目されていますが、それも技術の進化があったからこそなんですね。白髭 : その通りです。ただ、RNAの研究者も、こんなに早くワクチンが実用化されるとは予想していなかったのではないかと思います。火急の事態があるとその分野がすっと伸びるという現実を目の当たりにしています。池上 : そのワクチンのおかげで新型コロナウイルスを終息させられたとしても、また別の危機は必ず訪れます。そのときにまた、基礎研究はどのように役立つのかを実感することになるでしょうね。一方で、今回起きていることは、100年前のスペイン風邪、14世紀のペストのように、後世の学びの対象となるでしょう。

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